腹ペコ少女は米を炊く

 どこにでもあるようなアパートの夕日が差し込む一室で、今年一番の深い失望を味わっている少女がいる。腕を組み仁王立ちして、とある一点を冷ややかな目で見下ろす。頬を膨らませ、尖らせた口からは文句がいつ出てもおかしくない。その姿はさながら、子供を叱ろうとする母親のようだ。無論、人の親になったことはなく、当然、咎める子供もいない。いずこからか隙間風が吹き、少女の雪で染め上げたような白銀の髪と、鮮やかなパステルブルーで厚手のワンピースを優しく撫でていく。
 少女は静止している。冬の寒風が素足を刺し、風に揺られる度に、長い髪が顔を覆うとも動かない。髪が鼻の穴へ突入し、縦横無尽に暴れたところでやっと頭を振る動作を始め、手でも髪を払いのける。
 少女の見つめている先にはコタツがあり、その上には二種類の料理が並べられていた。焦げ目を隠すようにトロッとしたソースが流れているハンバーグと、ニンジンとブロッコリーの付け合わせが花を添える。もう一品はキノコ、キャベツ、玉ねぎと一緒に、これでもかというほどのもやしを使った野菜炒め、もとい、もやし炒めだ。この二品には熱気と香気を逃さないようにラップで蓋がされており、その上に一枚の紙きれが張り付けてあった。紙切れにはこう書かれている。
『今日はおそくなるから、レンジでチンして食べてね ママより』
 恐らく少女の母親が作った料理なのだろう。仕事かどうかは分からないが、出かける前に作り置きをしたことが窺える。
 別に少女は母親の帰りが遅くなることや、お昼のお弁当にもハンバーグが入っていたこと、惨たらしい量のもやしが使われている野菜炒めもどきに怒っている訳ではない。それは全て些細なことで、少女の日常でもあった。
 一つだけ、足りないものがある。
 
 ――お米がない。
 
 少女は棚の上にある炊飯器に向かって歩き出す。その足取りは覚束ないが、ジトッとした目線は炊飯器をしっかりと捉えて逃がさない。一歩進むごとに鼻をひきつかせ、喉を鳴らし、握りこぶしに力が入る。棚にたどり着いて、今度こそという思いを込めて炊飯器の中を覗き込む。しかし期待していたものは無く、膝をつきがっくりと項垂れる。
 少女が家に帰ってから炊飯器を覗き込むのは、これで二度目になる。一度目は学校から帰宅直後のこと。家のドアを開けてすぐに、焦燥感を顔に浮かべて慌ただしく靴を脱ぎ捨て、父親のブーツを蹴り飛ばし、一目散に炊飯器へと駆け寄った。勿論、背負っていた邪魔くさいランドセルを、途中でソファーに投げつけるのは忘れない。
 それほどまでに少女は炊飯器を愛していたのだ。
 ではなく、お米が好きだった。
 何度確認しても無いものは無いと、自分にそう言い聞かせて立ち上がる少女。突如、ごげぇ! というヒキガエルでも握り潰したような音がした。どうやら、少女の腹の虫が催促したようだ。すばやくお腹を押さえて、後ろを振り向く。恥ずかしさで顔を赤らめているが、言うまでもなくここには少女一人しかいない。ほっと安心したのも束の間、何とかしないとお腹が空いて倒れてしまうと思った少女は、この冬の一大決心をする。
 
 ――ご飯を炊こう。
 
 別に炊かなくても、今すぐ料理の上蓋を引き裂き、聳え立っているもやしに思う存分かぶりつけばいいのだが、少女の頭にそんな選択肢は存在しない。なぜなら少女にとっては、おかずだけを食べること即ち、神を冒涜する行為に等しいからである。炭水化物は大事だからちゃんと食べようねと、学校で教わったのを、『食べないと神様が降臨し、親だけが滅茶苦茶ビンタされる』と独自解釈した結果だ。だとしてもわざわざ米である必要はない、麺やパンでいいじゃないかと言う人もいるだろう。実際、炊飯器の棚にはカップ麺と食パンが、これ見よがしに置かれていて、少女も気付いている。
 だが、認識しても手に取ることはない。少女はカップ麺を一瞥すると鼻先でせせら笑う。あのような口へ運ぶたびに、右へ左へちゅるちゅると暴れ狂う鞭など食べぬわ! という気持ちが感じ取れた。もう一つの理由としては、食べるたびに机や服が汚れるからである。後に激戦の証と吹聴して歩くことができるというのに、飛び散る汁を嫌っている。
 次に食パン。つまり、パン。一切、目に入れようとしない。ご飯が好きな少女にとっては、自分のテリトリーに浸食してくる天敵そのものだ。とは言え、食わず嫌いという訳ではない。ある日、少女は「たまにはパンでも食べなさい」と両親に言われて渋々頷き、タンスの角に足の小指をぶつけたような表情でパンを齧ったことがある。パンを持つ手が震えて、顔面にパンチを繰り出しながら咀嚼するその姿は、食ってるんだか食われれてるんだか分からない。
 少女の初めてパンを食べた感想は、小麦粉の岩石。正直に、こんな岩はドリルが食うもんだ! と言うわけにもいかず、まぁまぁの味だったと屈辱的な嘘を吐いた。これ以来、パンという言葉を聞いただけで卒倒してしまうようになってしまった。
 
 少女は窓の外を見やる。レースのカーテンからでも、はっきりとした鮮やかな緋色だった空は、星々たちが忙しなく黒に塗り替えようとしている。
 少女は背伸びをして、炊飯器の中にある内釜を持ち上げる。よろめいて釜が棚に当たり、試合開始のゴングが鳴る。無味で冷たい音が、これからの少女の奮闘を嘲笑うように、部屋中へ染みわたっていく。釜を抱え、辺りを想い人を探すようにきょろきょろとして、米を求めふらふらと彷徨う。今、母親が帰ってきたら「この子は、雨が降ってないのに雨漏りを探してる……ああ、狂ったんだわ」と泣き崩れること請け合いだ。
 少女の腕が痺れてきたところで、やっとお目当てのものを見つけることができた。まるでヘッドスライディングでもするんじゃないかという勢いで、米袋の前まで飛び跳ねて行って、丁寧に正座になる。『マチビカリ 5kg』と書かれている、レジ袋に包まれていた米袋を取り出す。子供に5kgは重いと思いかもしれないが、毎日の如く米袋を、何が楽しいのか上げ下げするという無益なことをしている少女には、取り出すくらい容易いものである。無用の長物となったレジ袋は、ぞんざいに投げ捨てられ、大口を開けている。米袋に書いてある『ご飯の炊き方』を、じっと食い入るように読み、ふん、ふんと頷いた後、首を傾げて思案顔になる。何か変だなぁ、とお母さんが毎日していたことを思い起こしているようだ。米袋には、ボウルに米を入れて洗米をすると書いてあるが、少女の記憶では、釜へ直接米を入れて洗っている母親の姿があった。
 どちらが正しいか迷う少女。額に人差し指を当てて、犯人を推理する探偵のように考えこむ。しばらくして、ボウルと米を釜に入れて一緒に洗えばいいという、効率的なやり方が不意に閃く。二つを混ぜてやってしまえば、ボウルを後で洗う必要はなくなり、そのまま炊けば、ご飯をお椀によそわずともボウルで食べればいいだけ。なるほど、子供らしい斬新な発想である。横着な馬鹿野郎の浅知恵とも言う。実行しようと思ったのも束の間、少女はボウルを探すのが面倒でこの方法は早々にあきらめた。親からのものぐさな性格を受け継いでいたのが、功を成したのかもしれない。
 少女は意気揚々とハサミを手に取る。倒れることのないように米袋を足で抱え込み、ガッチリと固定する。ハサミで音もなくスーッと切り進んでいくと、もちっとした柔らかい香りが次から次へと溢れ出す。その匂いを恍惚として嗅ぎ入ってしまい、少女は薬でもキメたんじゃないかといった表情をする。米に身も魂も売ってしまうと、幼い子供でさえも心を打ち壊され、虜になるといういい例だ。
 気色の悪い笑みの少女は、釜へと米を入れようとする。母親がいつも「五合、五合」と言って米を洗っていたのを、その腕にぶら下がって揺れながら聞いていたので、同じく五合にするつもりだ。米袋を抱きかかえ、バケツをひっくり返すように、GO! GO! と中身を釜へぶち込み始めた。密閉空間から解き放たれた米たちは、数瞬の絢爛華麗な舞いの後、釜底に身を打ち付けられて押し潰し合う。釜の中から轟く、けたたましい音が耳朶を打ち、集中|豪米《ごうべい》の激しさを物語っている。一頻り降り終わり、まるでこれから力士が来客しますと言わんばかりの量の米が釜に盛り付けられていた。入りきらなかった米粒が床にパラパラと落ち、流石に少女も己の過ちに気付く。というか、途中ですでに気付いていた。それでも止めなかったのは、ひっくり返してしまったがゆえに、慌てふためこうと、念仏を唱えようと、結果は同じだからである。
 少女は仕方なく、山となった米を袋へ戻し始め、飛び散った米粒も投げ入れる。夜の帳が下りた空では気まぐれな月が、雲隠れに興じている。その淡々しい月明りが、少女の手元に伸びてきては消えるを繰り返す。未だに部屋の電気を点けていない。
 全ての米を拾い終わると、少女はようやく暗いと感じて明かりを点ける。昼白色の光が天井から降り注ぐ。あまりの明暗の差に、しかめっ面になり目を閉じるが、じきに慣れてゆっくりと瞼を開けてゆく。
 開いた視界の先には、少女のランドセルがゴミ箱の上で逆立ちしているという、異様な光景があった。帰宅してランドセルをソファーに叩きつけたその弾みで、ゴミ箱へ飛んでいったのだ。しかもご丁寧に蓋の部分である、|冠《かぶせ》が開いて中身は全てゴミ箱に食われている。
 少女はそんなランドセルの奇跡など、一目で興味を失い、炊事場へと足を運ぶ。台所の前まで来ると、シンク下に備え付けてある観音開きの戸棚を開く。扉に収納されていた包丁が振り子のように揺れる。中には袋に入った食塩や、埃の被った食器類、子供用の木製の踏み台がある。三つ重ねられたボウルも置いてあったが、見なかったことにして踏み台を引きずり出す。踏み台に登って流し台へ釜を下ろし、つま先立ちになって蛇口のレバーを押し上げる。そして、ある程度水が溜まりレバーを下げようとするが、サイコロ一つ分ほど届かない。思いっきりジャンプをしてようやく蛇口は沈黙する。
 少女は飛び跳ね回る。水道を止めたことに狂喜乱舞しているのではない。両膝を棚の取っ手に全力でぶつけたからだ。髪とワンピースを振り回し、苦痛とも激怒とも取れる表情を浮かべている。少しのあいだ暴れて気の済んだ少女は、乱れた髪を手で梳かし上げると、袖を捲って真っ白な柔肌を晒す。苦労の末、やっと洗米に取り掛かることが出来ると、安堵の溜息が出てしまう。
 釜を見下ろす少女。その双眸には冬の真水が映り、無色透明の|水面《みなも》が行く手を阻む。躊躇うように手を一巡させてから、意を決して米を掴みにいく。指先で感じた冷たさが、瞬く間に全身へと広がっていき、身震いしながらもかき混ぜていく。米は内釜と手のひらに挟まれ、助けを乞うようにザギャア、ザギャアと泣き叫ぶ。白濁したとぎ汁が、釜に沿って渦を巻き、洗濯機もかくやとばかりに泡立ち、重力を忘れた雫が辺りに飛び散る。少女は楽しくなって破顔していた。それもそのはず、最愛の米を自らの手で洗ってあげているのだ。もうフィーバーするしかない。
 とぎ汁をまき散らし水位が低くなると、また水を足すといった奇妙な洗米を三回繰り返して、少女はハッと我に返る。恐る恐る視線を上げ、台所の惨状に目を見張り、しばらくして目を逸らした。だが、どこを見ても釜から迸ったとぎ汁が壁にへばり付いている。少女の顔面も例外なくびしょ濡れになっていて、額と頬を撫でていく白水は、顎下で一滴となり落ちていく。
 ほっとけば乾くから別にいいかと、思った少女は掃除をせずにほったらかしにしてしまう。乾燥した後には、斑点模様の壁の出来上がるが、模様替えをしたと言い張れば何とかなるかもしれない。それはそうとして、愛の成せる業だろうか? こんなに激しく洗っても、米は一粒も宙へ飛ばすことはなかった。
 少女はタオルで顔を拭うと、口を歪ませてほくそ笑んだ。ついに時が来たのだ。ここまで来るのに様々な苦難、紆余曲折あったが、過ぎ去ってみれば他愛のないものである。初めて挑戦したにしては上出来だ、むしろ上手く出来すぎて怖いと、少女は胸を張って自画自賛をした。自惚れに親の苦労が目に見える。
 少女は釜を持ち上げ、周囲に付着した水滴を、まるで珠でも磨き上げるかのように綺麗に拭いていく。湿ったタオルから漂う美妙な香り――『微妙』ではなく、『美妙』であり、それは洗ってふわふわとしたタオルでさえも及ばない魅力があると、普段から少女はよく豪語している。――が、早くご飯が食べたくてたまらなくなっている少女の、はやる気持ちを後押しする。
 
 少女は炊飯器の中へ釜をセットする。振動で米たちが喚いて波紋を立てる。それを、我が子の旅立ちを見送るような顔で、何度も頷きながら見ていた。ややあって、飽きたのか急に無表情になり、炊飯器の蓋を勢いよく閉めたが、拒絶するかの如く反発して大あくびをする。何ていけ好かない炊飯器なのだろうか? と少女は嫌いな男の子を見るように、目つきを鋭くして憤慨する。先程すでに述べたが、少女は炊飯器が好きなわけではない。炊飯器という根性の悪い輩は、人間よりも先にその大きな口で米を咥えこみ、数十分間に亘り閉じ込めて独り占めにするのだ。おまけに、熱で浮かして米たちを弄んでいる。実に得手勝手だ、いくら神様といえどもそこまで横暴じゃないぞとまで思い、少女は腹の底から何かが込み上げてくるのを感じた。胃液ではないことを祈ろう。
 今度は両手でしっかりと閉めて体重を乗せ、さぁ、いうことを聞け、でないと電源コードを引っこ抜くぞと、見開いた眼で訴える少女。炊飯器の丸みを帯びた部分に力を加えたため、手が滑り落ち『炊飯』と書かれたボタンを押してしまう。バランスを崩して勢いそのまま、炊飯器にヘッドバットを食らわした。刹那、少女の視界はペンキを撒いたみたいに真っ白へと染まるが、すぐに元の色を取り戻す。頭を振り何が起こったかを理解したようで、唇をすぼめて不満げな顔をする。右手で自分の額をさすり、左手は炊飯器を撫でている。いけ好かないとはいえ、物理攻撃をするつもりはなかった。
 
 あとは待つだけかと、気を取り直した少女は手持ち無沙汰になり、何をするかを考えながらウロウロと歩き始めた。ご飯が炊けるのにかかる時間は数十分だが、少女にとっては一刻千秋の思いだといっても差し支えないだろう。現に歩きながら、まだかまだかと炊飯器をチラ見しては落胆し、黄昏れるを何度か繰り返している。
 このまま歩いていても疲れるだけだと思った少女は、とりあえず踊ることにした。滅多矢鱈に振り回す両手から、風切り音が発生する。足の奇妙な動きのステップは上半身の動きと全く合っておらず、まるで祭りに飛び入り参加したアホウドリが、一心不乱に盆踊りの真似事をしているようにしか見えない。月のスポットライトを浴びて踊り狂う少女の影は、落ち着くことを知らない。体の上下の呼吸が合っていないその影は、しだいに右へ右へと引っ張られていく。
 ‥‥‥十分経過。
 呆れたものだが、少女は表情に疲れが出てきたものの、いまだに独創的な盆踊りをしている。視界の端に白いものが映り込み、それを見ようとして顔を向ける。だが、今まで奇しくも取れていた均衡が崩れて、足を大きく横に一歩踏み出してしまい、白い何かを踏み抜く。《《パン》》ッと小粋な破裂音が一室に響き渡る。少女は卒倒した。足には穴の開いたレジ袋が絡みついている。自分で蒔いたレジ袋。無造作に捨ててしまったがために、自らの手で無様な演芸の幕を引くことになってしまった。
 幸い頭を打つことはなく、少女はしばらくして目を覚ますが、目の焦点が合わずにボーッとしている。炊飯器から湯気が揺れながら立ち昇り、天井へ吸い込まれてゆく。ご飯の炊ける和む匂いが部屋の隅々まで広がっていき、少女の体も優しく包み込まれる。匂いに導かれてか、脳内を大事な親友との日々が走馬灯のように駆け巡る。抱き米枕にして共に寝たり、米風呂に入ったり、米粒を繋ぎ合わせてビーズ――ベーズと名付け、タンスの中に大切に保管してある。今頃カビが生えていることだろう。――にしたり、急斜面で米たちとかけっこをしたり。どれもこれも最終的には親に食べ物で遊ぶなとシバかれたが、大切な思い出だ。
 懐かしさと切なさを感じた少女は、炊飯器を見上げ瞼を閉じると、私はきっと負けたんだろうと敗北を悟る。
 
 ――強敵だった……。
 
 寡黙な少女の呟きは声にならない。
 ご飯が炊きあがり、静寂を破るように炊飯器の無機質な音が勝ち誇るように試合終了を告げる。
 
 炊飯器の勝利である。