始まりのアメジスト

―胸に手を当て、確認する。心臓が高鳴っているが、それは緊張と言うより期待が湧いている。深呼吸をして頭にこれから言う言葉を浮かべる。
私なら大丈夫、と思いながら白いスライドドアを開く。
一歩進んでは教室をちらりと見て、また一歩進む。
教卓の前に立つと、多くの視線は私に変わる。
スッと息を吸っていつもように普通よりも高い声を出す。

「今日からこのクラスに転入することになりました。|藤柳歌《ふじやなぎうた》です! 遠慮なく声をかけてくれれば嬉しいです。よろしくお願いします!」

最後に礼をすると、席に着いたクラスのみんなは笑顔で迎え入れてくれた。
秋元先生が指を差す席に座る。
すると近くの席の人から男女問わず話しかけてくれた。
一斉に言われてよく聞こえなかったけれど、隣の女の子は私の肩を叩いて言った。

「歌ちゃんだよね。あたしは泉華菜! よろしくね」

笑顔で言うと、私も「うん」と笑顔で返す。
クラス全体を見ていると個性豊かで面白そうだと思う。
みんな明るくて優しそうで、一致団結できそうだなと嬉しかった。
けれど端に一人だけ、向こうを向いたまま話さない男子生徒がいた。
さらさらな黒髪でセーターを着た男の子。
何だろうとは思ったが、授業が始まるので気にせず急いで支度する。
まぁ、またいつか話せるだろう。どんな人なのかな。静かな人なのかな。
想像する程どんなことでも期待が高まっていった。

「藤柳、お前は偉いな。他教科の先生に聞いたぞ。積極的に授業に参加してくれて、頼んだこともしっかりやってくれるってな」

秋元先生は笑顔でそう話す。
私はテストでいい点が取りにくいから普段を頑張らないといけない。
だから積極的に取り組んで、テストは悪い点数を取っても授業で良い功績を残していたら多分大丈夫だろうと思っている。
遠くから引っ越してきたからこの地域のテストは難しいのかわからないけれど、やるからには計画的に頑張らないと。
改めて「ありがとうございます」と言い、先生から離れると華菜ちゃんが椅子を前後反対に座ってこう言った。

「歌ちゃんはすごいよね!今日転入してきたのにもう先生との付き合い良いし、クラスのみんなと前までも一緒だったように仲良くなってる」

華菜ちゃんは床から離れた足をバタバタさせ、満天の笑顔を浮かばせる。

「そうかな?」

「それに比べて|蓮水《はすみ》は…」

「蓮水って?」

クラスの殆どの子とはもう話した。それでも名前を知らないという事は。

「ほら、あそこに座ってる男子だよ。」

窓の外を眺める黒髪のセーターを着た男の子を指差す。
やっぱりあの人だったんだ。
何となく見つめていると、ふと蓮水君と目が合った。
けれどすぐに視線を逸らされる。
一瞬見た彼の瞳は、透き通るアメジストのように美しかった。
けれどその中には、どこか濁っていて悲しみを訴えているようにも見える。
考えすぎなのだろうか。

「うわ、目が合った。やっぱ蓮水君も歌ちゃんに惚れたとか? 」

「そんなわけないよ。」

アハハと苦笑いをしながら、今日一日、授業も昼ご飯も昼休みも、あの瞳がずっと頭の端で引っかかっていた。
あの瞳と同じように、奥底では深い何かが隠れているような目を、私は見たことがある。

私の兄、李月がそうだった。四つ上の李月はテニスの全国大会に出るほどの実力を持っていて、将来もオリンピックを目指すと言って期待されていた。
そして毎日何時間も練習に励んで、休みもろくに取らず過ごしていた。
私は段々と疲れが見える兄に練習を止めたけれど、アジア大会が迫って来ていて絶対に優勝したいんだ、と無稽だった。
数か月が経ち、兄がアジア大会に出場。
家族と私は観戦に行くために中国へ向かった。
私は入場する李月の違いにすぐに気が付く。
両親や他の人はわかっていないだろうけれど、私にはこれからの雲行きが怪しくなる合図だと、何となく思った。
試合が始まり、淡々と点を取っていく兄に歓声が上がる。
けれど私は心配しかなかった。
あと一点というところで兄がボールを追いかけていた時、走った途端姿勢を崩してコートに倒れた。
その瞬間歓声は騒然とした声に変わり、試合は中止。
この時からだったかな、李月の瞳が濁ったのは。
数時間経ってようやく起きたと思えば足が痛いと言い、病院に行くと左足に「疲労骨折」と判明した。
憧れだったアジア大会を怪我で退場し、李月が一番嫌だったことが現実に起きてしまった。
そこからは数か月経っても李月は俯いたままで、テニスをすることはなかった。
鬱病になってしまったんじゃないかと思ったが、あの時李月にこう言ったおかげで少しずつ戻ってこれた。

『過去のことなんか振り返らないで。後ろには夢はないよ。李月は凄いんだから、また頑張っていけばアジア大会だって出れるよ。前を向いて、夢を追いかけよう。どんな道も正解だから、これもきっと必要な事なんだよ! 』

こう言ってあげると、李月の瞳は磨かれたように星彩を取り戻した。
そこからは、もうテニスはしなくなってしまったけれど、代わりに新しい夢ができ、今はそれを追いかけている。
もし、あの人も同じように何かに悩んで光を失っているなら、私は助けてあげたい。


「ただいまー!」

玄関で靴を片方ずつ脱ぎながら言うと、二階からいつもの声が聞こえる。

「おかえり、歌。新しい学校どうだった? 」

ダボっとした服を着た李月。大学三年の李月はあの時と違ってとても穏やかになった。

「楽しかったよ。話しかけてくれた人が意外にいてさ、まぁでも気になってる人はまだだけど。」

すると、李月はドタドタと階段を降り、私の肩を掴んで激しく言った。

「気になってる人って…まさか好きな人? 好きな人ができたの? もう? 早くない? 」

少しシスコンなのが気になるが、私は李月の腕を退けて言う。

「そう言う事じゃなくて、昔の李月みたいになってた人がいたの。本当の所どうなのか知らないけど、転入して早々好きな人ができるわけないって」

「あー、そういう事か。良かった。お母さんが夕食作ってくれてるから、早く行こ」

李月はリビングの方へ向かう。私も後を追い、こんがりと良い焼き加減で焼かれたチーズの乗ったグラタンを、家族と話しながらゆっくり食べた―。

お風呂から上がり、御香を焚いて手を合わせる。
いつものルーティーンを終え、私はベッドに潜ってスマホの開いて明日の予定を確認する。
明日は、体育があるのか…
そう考えながら、抱き枕をグッと握って眠りについた。