プロローグ

 黒々とした髪色の少女は薄暗い部屋の真ん中に立っていた。少女の目の焦点は、どこか遠い過去を見つめているようでが定まってなく、絶え間なく流れ出た涙は頬を伝って床を濡らしていく。

 腕の中にはDiaryという文字と名前が書かれた鍵付きの本を大事そうに抱えていた。

「私、もう行かなくちゃ……」
 
 空虚に向かって呟いた少女はふらついた足取りで、ベランダの方へ体を向け足を踏み出していく。眼からは、透き通った心の雫が絶え間なく流れ落ちている。

 部屋の端まで来ると、ひびが入った窓ガラスをスライドさせ開けてベランダに出た。ベランダから一望できる景色は控えめに言っても、綺麗だった。
 少女はそんな綺麗な景色には似合わない苦虫を嚙み潰したような表情をしている。

「逃げるとか……私は卑怯者やね。でも、もう無理なんよ。私は、死ぬしかないのよ」

 誰に言ったわけでもない、小さな声。けれどもその声には、後悔と悲しみが深く沁み込んでいた。

 腕の中に本を抱えたまま、少女はベランダの端まで歩いた。
 ベランダには錆びて今にも朽ちそうな鳥かごや植木鉢の残骸、朽ちた木箱などのがらくたが無数に転がっていた。
 少女は近くのがらくたの山の中から四十センチメートル四方ほどの朽ちかけた木の箱を引き出し、ベランダの端にそっと置いた。
 
 少女は本を両手で抱きかかえたまま、ベランダの手すりに密接して置かれている木箱に上り、ゆっくりと手すりの下を見下ろした。涙が少女の頬を伝って未だに流れ落ち、表情はどこか少し寂しげだった。少女はゆっくりと手すりの上に身体を移した。
 少女は手すりの上に腰をおろすと空を見上げた。

 少し手すりから身を乗り出した次の瞬間、少女の体は宙を舞っていた。本をしっかりと抱きかかえたまま、重力に身を任せて逆らうこともなく—―

 少女が手すりから身を乗り出して、体が宙を舞った瞬間に何か呟いたが、風の音に掻き消されて少女の言葉は誰にも届くことはなかった。




 私の頭の中に、走馬灯の如く過去の記憶が流れた。
 私が生まれてこなかったらこんなことにはならなかったのだろうか。私があんなことをしなければ……。考えれば考えるほど、自分に何かが巻きついてくる感覚に囚われた。それはどんなに体をよじって抜け出そうとしても、硬くて冷たくて複雑に絡み合ってきて取ろうにも取れない。
 どうしても私がしたこと、私として過ごした過去は変わらない。そう思うと、目から涙が流れ出てくる。

 いくら自分の中で泣いてはいけないと思っても、もう溢れ出てくるものは止まらなかった。

『もういや』

『すべて忘れてしまいたい』

『なにもなかったことにしたい』

『消えてしまいたい』

 心の中で逃避の言葉をつぶやくと、何かが崩れて消えていってしまうような感覚に襲われた。

 思い出も、つらい過去も、人にかけた苦労も、自分の暗い思いも全て。




 そして、気づくと、私の周りからは何もなくなっていた。




 私は思った。


『私は誰?』


 と。