白い息が漏れる。
別に寒いわけではなく、ただの右手に持った煙草の副流煙だ。
「仕事の後の一服ってのはいいもんだな」
右隣の不機嫌そうなシエンにつぶやく。
「体に悪いです、隊長」
溜め息とともに吐き出されたその言葉は、信頼できる部下のもの。
「いいじゃないか。どうせいつ死ぬともわからない場所なんだ」
「隊長が死ぬ任務なんてあったら大隊が全滅してますよ。寿命を縮めるような真似はしないほうが賢明です」
俺はしわがれた掠れ声で笑う。
「そうだな。俺が死なないように気を付けた方がよさそうだ」
「そうですよ。だから禁煙しましょう」
「それは断る」
食い気味の即答に二人同時に噴き出す。
途方もなく、平和な時間だ。
「ルーシェムは?」
「なんとか大丈夫そうです。クルトのことは自分で決着を着けれたみたいなので」
「そうか」
煙草の吸い口を噛む。
肺が締め付けられ、喉を通る濃密な甘い煙が負傷した左脚の痛みを麻痺させる。
「血は止まりましたか?」
「大丈夫そうだ。痛みも大分なくなったよ」
煙を吐きながらシエンの問いに答える。
足りなくなった酸素を取り込むために鼻から空気を吸うと、焼けた肉と血とオイルの匂いが鼻を刺激する。
「……隊長」
「どうした」
俺はいつも通りの気だるげな声で応じる。
「俺たちは何を得るために、戦争なんてやってるんでしょうか」
シエンは、灰色の空を見上げながら問う。
最後に青空を見たのは、いったい何年前だっただろうか。
「……さあな」
視線を空から地上へと戻す。
アリの巣の断面のように掘られた塹壕、砲身が半ばから折れている高射砲、煤で黒くなったぼろぼろの戦車、33mm砲弾や8.8cm砲弾。
そして、無数の死体。
首から上が無いものもあれば、全身真っ黒に焼かれたもの、もはや肉片だけのもの、その全てが《《元》》人間。
軍服の切れ端についたワッペンが逆五芒星のものもある。
俺の仲間だったものも、この肉片の中にあるかもしれない。
ここは、戦場だ。
「誰も知らないさ、そんなこと。一個人の意思が絡み合い、実体のない”集団”という人格ができただけだ」
「……だれも望んでないのに、ですか?」
「ああ。誰も何も、戦争なんて望んじゃいない。望んでいるとするなら、神くらいだろ」
煙草を咥え、煙を思いきり吸い込む。
吐き出した煙は、思い返せば一度も青かったことのない空へと向かい、消えていく。
地上を傍観する神の居る、天に向かって、消えていく。
「隊長は、望んでいるんですか?この戦場を」
シエンが真面目な顔でこちらを見てくる。
そんな様子に、思わず苦笑いが漏れてしまう。
「ははは、そんな訳ないだろ。コーヒーはまずい、ビールは薄い、ザワークラウトはしょっぱすぎる。出来ることなら早く後方勤務にでも行きたいさ」
実際、コーヒーはまずい。
香りはしないくせに飲んでみればひたすらに苦い。
ビールも100倍希釈にしても、あそこまで薄くはならないだろう。
どちらも、ガバガバ飲む部下がいたが、正直なところ、頭がおかしいと思っていた。今もそう思う。
「だが、俺たちは職業軍人じゃない。俺たちがやってるのは国家が総力を挙げてやってる究極の宗教戦争だ。そこにあるのは、誰かの思想でも、イデオロギーでも、ましてや意思でもない。あるのは、時代を超えた大義と強迫観念だけだ」
シエンは息を吞む。
恐らくは、演説をするときの俺とも、仲間と与太話をするときの俺とも違うからだろう。
俺は俺自身を落ち着かせるために、もう一度煙草の吸い口を噛む。
「誰も、望んじゃいない。お互いがお互いの命を擦り減らせていくだけだ」
「…………いつもの悪魔のような隊長の口から出たとは思えない言葉ですね」
若干、”悪魔のような”というところに不満を覚えながらも笑う。
「そんなことないさ。俺だって一人の人間だからな、人を殺すことは気分のいいもんじゃない」
吸うか?、とシエンに懐から取り出した煙草を向けると拒否されたので再び煙草の甘い魅了に浸る。
「だが、俺は死ぬまで戦場《ここ》にいるだろうな」
シエンが怪訝そうな顔をする。
「何故ですか?望んでない戦争なら、退役したっていいじゃないですか」
正論だ。
だが、
「…………俺はもう、銃を握っちまったからな」
「……何を言ってるんですか」
シエンが俺と真正面から向き合う。
どこか、救いを求めるかのように。
「俺は銃を握り、名前も知らない人を撃ち、そいつを愛する誰かを悲しませちまったんだ。そんな俺が、のうのうと生きていていいはずがない。いつかはまた、罪もない誰かを殺めて誰かを悲しませるだけだ」
「なら……」
シエンに何も言わせず、間髪入れずに続きを話す。
「お前が思っている以上に銃を手放すのは難しい。一度、戦場に足を踏み入れたら誰も信用できなくなる。誰も彼も戦争中毒《Kriegssucht》になっちまうのさ」
俺だって、まっとうに生きようとしたこともあった。
だが、失敗した。成功するわけなかった。
人を撃つ感覚と、銃を持つ感触はこの手から消えなかった。
「誰も信用できなくなり、最後には自分がわからなくなる」
だから、俺の娘は死んだ。
だから、俺は死んだ。
“戦場で生き残りたかったら、すべてを疑え。でなければ、仲間に殺されるだろう”
いつしかの、機甲師団長が最期の任務前に演説で言っていた言葉だ。
「そんなもんですか」
「そんなもんさ」
シエンは微笑を顔に張り付けながら言う。
「……わたしの左目は、未来が見えるんです」
「そういえばそうだったな」
シエンは瞼のないむき出しの左目を眼帯越しにそっと触れる。
「きっと、銃を握らなくていい時代も来ますよ。必ず」
「そうだといいな。……誰も血を流さなくていい時代が、来てほしい。俺はそう願う」
「来ますよ。そこで笑顔でいられるのは、まだ誰かはわかりませんけど」
「その前に、俺やお前は死んでいるかもな。お互い、いい歳したおっさんだ」
先月に46歳になったシエンの、その泥と血でまみれた彫りの浅い顔を見て笑う。
シエンも、今年で51歳を迎える俺のしわと泥と血でまみれた顔を見て笑う。
数瞬、俺たちは目の前の惨状を忘れて笑いあっていた。
鈍い地鳴りのような、爆発音が響く。
「二時の方向、敵戦車です。リリウム隊長」
すでに立ち上がった俺が差し出した右手を、シエンはしっかりと握って立ち上がる。
「潰しに行くか。シエン少佐」
灰色の空に、灰色の未来に、黒き羽を広げた二人の男が飛んでいく。
別に寒いわけではなく、ただの右手に持った煙草の副流煙だ。
「仕事の後の一服ってのはいいもんだな」
右隣の不機嫌そうなシエンにつぶやく。
「体に悪いです、隊長」
溜め息とともに吐き出されたその言葉は、信頼できる部下のもの。
「いいじゃないか。どうせいつ死ぬともわからない場所なんだ」
「隊長が死ぬ任務なんてあったら大隊が全滅してますよ。寿命を縮めるような真似はしないほうが賢明です」
俺はしわがれた掠れ声で笑う。
「そうだな。俺が死なないように気を付けた方がよさそうだ」
「そうですよ。だから禁煙しましょう」
「それは断る」
食い気味の即答に二人同時に噴き出す。
途方もなく、平和な時間だ。
「ルーシェムは?」
「なんとか大丈夫そうです。クルトのことは自分で決着を着けれたみたいなので」
「そうか」
煙草の吸い口を噛む。
肺が締め付けられ、喉を通る濃密な甘い煙が負傷した左脚の痛みを麻痺させる。
「血は止まりましたか?」
「大丈夫そうだ。痛みも大分なくなったよ」
煙を吐きながらシエンの問いに答える。
足りなくなった酸素を取り込むために鼻から空気を吸うと、焼けた肉と血とオイルの匂いが鼻を刺激する。
「……隊長」
「どうした」
俺はいつも通りの気だるげな声で応じる。
「俺たちは何を得るために、戦争なんてやってるんでしょうか」
シエンは、灰色の空を見上げながら問う。
最後に青空を見たのは、いったい何年前だっただろうか。
「……さあな」
視線を空から地上へと戻す。
アリの巣の断面のように掘られた塹壕、砲身が半ばから折れている高射砲、煤で黒くなったぼろぼろの戦車、33mm砲弾や8.8cm砲弾。
そして、無数の死体。
首から上が無いものもあれば、全身真っ黒に焼かれたもの、もはや肉片だけのもの、その全てが《《元》》人間。
軍服の切れ端についたワッペンが逆五芒星のものもある。
俺の仲間だったものも、この肉片の中にあるかもしれない。
ここは、戦場だ。
「誰も知らないさ、そんなこと。一個人の意思が絡み合い、実体のない”集団”という人格ができただけだ」
「……だれも望んでないのに、ですか?」
「ああ。誰も何も、戦争なんて望んじゃいない。望んでいるとするなら、神くらいだろ」
煙草を咥え、煙を思いきり吸い込む。
吐き出した煙は、思い返せば一度も青かったことのない空へと向かい、消えていく。
地上を傍観する神の居る、天に向かって、消えていく。
「隊長は、望んでいるんですか?この戦場を」
シエンが真面目な顔でこちらを見てくる。
そんな様子に、思わず苦笑いが漏れてしまう。
「ははは、そんな訳ないだろ。コーヒーはまずい、ビールは薄い、ザワークラウトはしょっぱすぎる。出来ることなら早く後方勤務にでも行きたいさ」
実際、コーヒーはまずい。
香りはしないくせに飲んでみればひたすらに苦い。
ビールも100倍希釈にしても、あそこまで薄くはならないだろう。
どちらも、ガバガバ飲む部下がいたが、正直なところ、頭がおかしいと思っていた。今もそう思う。
「だが、俺たちは職業軍人じゃない。俺たちがやってるのは国家が総力を挙げてやってる究極の宗教戦争だ。そこにあるのは、誰かの思想でも、イデオロギーでも、ましてや意思でもない。あるのは、時代を超えた大義と強迫観念だけだ」
シエンは息を吞む。
恐らくは、演説をするときの俺とも、仲間と与太話をするときの俺とも違うからだろう。
俺は俺自身を落ち着かせるために、もう一度煙草の吸い口を噛む。
「誰も、望んじゃいない。お互いがお互いの命を擦り減らせていくだけだ」
「…………いつもの悪魔のような隊長の口から出たとは思えない言葉ですね」
若干、”悪魔のような”というところに不満を覚えながらも笑う。
「そんなことないさ。俺だって一人の人間だからな、人を殺すことは気分のいいもんじゃない」
吸うか?、とシエンに懐から取り出した煙草を向けると拒否されたので再び煙草の甘い魅了に浸る。
「だが、俺は死ぬまで戦場《ここ》にいるだろうな」
シエンが怪訝そうな顔をする。
「何故ですか?望んでない戦争なら、退役したっていいじゃないですか」
正論だ。
だが、
「…………俺はもう、銃を握っちまったからな」
「……何を言ってるんですか」
シエンが俺と真正面から向き合う。
どこか、救いを求めるかのように。
「俺は銃を握り、名前も知らない人を撃ち、そいつを愛する誰かを悲しませちまったんだ。そんな俺が、のうのうと生きていていいはずがない。いつかはまた、罪もない誰かを殺めて誰かを悲しませるだけだ」
「なら……」
シエンに何も言わせず、間髪入れずに続きを話す。
「お前が思っている以上に銃を手放すのは難しい。一度、戦場に足を踏み入れたら誰も信用できなくなる。誰も彼も戦争中毒《Kriegssucht》になっちまうのさ」
俺だって、まっとうに生きようとしたこともあった。
だが、失敗した。成功するわけなかった。
人を撃つ感覚と、銃を持つ感触はこの手から消えなかった。
「誰も信用できなくなり、最後には自分がわからなくなる」
だから、俺の娘は死んだ。
だから、俺は死んだ。
“戦場で生き残りたかったら、すべてを疑え。でなければ、仲間に殺されるだろう”
いつしかの、機甲師団長が最期の任務前に演説で言っていた言葉だ。
「そんなもんですか」
「そんなもんさ」
シエンは微笑を顔に張り付けながら言う。
「……わたしの左目は、未来が見えるんです」
「そういえばそうだったな」
シエンは瞼のないむき出しの左目を眼帯越しにそっと触れる。
「きっと、銃を握らなくていい時代も来ますよ。必ず」
「そうだといいな。……誰も血を流さなくていい時代が、来てほしい。俺はそう願う」
「来ますよ。そこで笑顔でいられるのは、まだ誰かはわかりませんけど」
「その前に、俺やお前は死んでいるかもな。お互い、いい歳したおっさんだ」
先月に46歳になったシエンの、その泥と血でまみれた彫りの浅い顔を見て笑う。
シエンも、今年で51歳を迎える俺のしわと泥と血でまみれた顔を見て笑う。
数瞬、俺たちは目の前の惨状を忘れて笑いあっていた。
鈍い地鳴りのような、爆発音が響く。
「二時の方向、敵戦車です。リリウム隊長」
すでに立ち上がった俺が差し出した右手を、シエンはしっかりと握って立ち上がる。
「潰しに行くか。シエン少佐」
灰色の空に、灰色の未来に、黒き羽を広げた二人の男が飛んでいく。