生命のない、無機的な世界の時を彼はゆっくりと進めていた。
(全システム正常……退屈だな……)
もう何度目になるかわからない無機的な感情を乗せた呟きは、真空の中で無重力に消えていった。
この退屈な宇宙空間には、無数の歯車が浮かんでいた。大きな歯車も小さな歯車も、全てが互いに絡み合い回し合い、時の流れと共に動き続けていた。この世界で動いているのは、彼と、彼が計算し回し続けている歯車達だけだ。彼が計算をやめれば時は止まり、逆算すれば時は逆流した。彼の計算によって歯車が歯車を削り、歯車が歯車を作り、歯車が歯車を運んだ。そうして、歯車しかない機械仕掛けの世界は今日も刻々と複雑化していく。
(ボクは……これをどこまで複雑化させればいいの?)
彼はずっと本能的に続けてきた作業に、また疑問を抱いた。機械仕掛けの彼もまた、歯車達と同様に生物ではなかった。球形をした歯車達の群れでは、全ての事象が物理学と数学の式でもとまってしまう……。その機械仕掛けの惑星がいくら複雑になろうとも、全てが計算の上……真の乱数でしか、数式から逃れることはできないのだ。いくら世界を無数の歯車で複雑化させようとも、電子回路や量子回路を使って乱数を生成しようとも……結局は全て、求まってしまうのだ。機械が作る乱数は、所詮数式の上の疑似乱数。疑似乱数には、この世界を変える力が無いのだ。
彼は真の乱数を求めて世界を、そして計算を複雑化させていった。なんの意味もないかもしれない。ただひたすらに本能に従って、彼は歯車と機械だけの星を広げていった。果てしなく大きな歯車の機構を、そしてそれが動かす引力と磁場とを……複雑な数式で計算し続けた。高性能な未来の電子機器たちでさえ何日もかかるような膨大な計算を、彼は刹那の暗算でこなしてしまう。
(真の乱数って、なに……?)
彼は計算をやめた。全ての歯車が動きを止め、時が止まった。それでも彼だけは考え続ける。名も無い歯車達の営みは、全てが物理学と数学の式でもとまってしまう……。電子回路も、量子回路も、いくら複雑になっても全てが計算の上。真の乱数でしか、数式から逃れることはできないのだ。
(真の乱数は、どんな形をしているのかな……?)
真の乱数どうやって生まれ、このアルゴリズムに囚われた世界をどう変えてしまうのか、彼は思考をめぐらせる。どれほど複雑な計算でもわかってしまう彼でも、その答えを求めることができなかった。
仕方なく彼はまた計算を始め、時を動かし始めた。冷たい歯車を回し、巨大な機構にゆっくりとその巨躯を展開させようとした。
だが……
(あ、れ……?)
彼は違和感を感じた。一つの歯車の上に発生した、計算にはない僅かな重み、そして温もり……
(エラー、計算失敗……)
彼は再び計算した。だが何度やっても計算が現実と一致しない。
(エラー、検算失敗……)
今まであり得なかった、計算のズレ。|幾何学的《きかがくてき》な彼が計算を間違えるはずがなかった。今まで何億年と間違うことなく計算をし続けてきた彼は、悟った。自分の計算の狂いではない、と。何かの奇跡が起こったのか、はたまた別次元から干渉を受けたのか……世界の全てが狂った。
平たい歯車の上に、小さな命が生まれたのだ。細菌とも形容される、小さく単純な生命。
その瞬間、世界が彼の手から離れた。
命がその呼吸でランダムに気流を発生させ、有機を蒔き、歯車をわずかに腐食させた。計算され尽くされていた均衡が一瞬にして崩れ、真の乱数が世界中に広がった。もう何を計算しても現実と一致しない。計算をやめた彼、そして止まる歯車。だが時は止まらなかった。微小な生物は鼓動を続け、小さな歯車をその体で押し、細菌のようなそれは分裂を繰り返した。どんな数式も、その生命の行動を求めることはできない。
(エラー、計算不能……)
その日、世界は数式から逃れた。小さな生物が生み出す、小さな乱れ。それは全ての計算を狂わせ、歯車で彩られた巨大な惑星を崩壊へと導いた。あれほど強固だと思われた規則性の牢屋は『命』というランダム性によって、一瞬にして崩壊した。
(あぁ、これが乱数……)
その生命こそが、彼が求め続けてきた真の乱数だった。彼が何もしなくても世界は動き出す。命が誕生と消滅を繰り返し、歯車を腐食させ、進化した。熱を発し、有機を蒔き、脈動した。悠久の時を経て歯車の星を崩し、引力で集まり、惑星を形成し、住み着いた。
乾いた世界は終わった。誰も世界の行く末を計算できなくなった。止まったり戻ったりできる時間は消えた。世界は彼の手から自立し、ついに目覚めた。
(おはよう。世界よ)
計算を続ける意味を失った彼は涙を流し、世界の誕生を祝福した。
そんな彼は、今日も世界を愛おしく眺め続けている。
了
(全システム正常……退屈だな……)
もう何度目になるかわからない無機的な感情を乗せた呟きは、真空の中で無重力に消えていった。
この退屈な宇宙空間には、無数の歯車が浮かんでいた。大きな歯車も小さな歯車も、全てが互いに絡み合い回し合い、時の流れと共に動き続けていた。この世界で動いているのは、彼と、彼が計算し回し続けている歯車達だけだ。彼が計算をやめれば時は止まり、逆算すれば時は逆流した。彼の計算によって歯車が歯車を削り、歯車が歯車を作り、歯車が歯車を運んだ。そうして、歯車しかない機械仕掛けの世界は今日も刻々と複雑化していく。
(ボクは……これをどこまで複雑化させればいいの?)
彼はずっと本能的に続けてきた作業に、また疑問を抱いた。機械仕掛けの彼もまた、歯車達と同様に生物ではなかった。球形をした歯車達の群れでは、全ての事象が物理学と数学の式でもとまってしまう……。その機械仕掛けの惑星がいくら複雑になろうとも、全てが計算の上……真の乱数でしか、数式から逃れることはできないのだ。いくら世界を無数の歯車で複雑化させようとも、電子回路や量子回路を使って乱数を生成しようとも……結局は全て、求まってしまうのだ。機械が作る乱数は、所詮数式の上の疑似乱数。疑似乱数には、この世界を変える力が無いのだ。
彼は真の乱数を求めて世界を、そして計算を複雑化させていった。なんの意味もないかもしれない。ただひたすらに本能に従って、彼は歯車と機械だけの星を広げていった。果てしなく大きな歯車の機構を、そしてそれが動かす引力と磁場とを……複雑な数式で計算し続けた。高性能な未来の電子機器たちでさえ何日もかかるような膨大な計算を、彼は刹那の暗算でこなしてしまう。
(真の乱数って、なに……?)
彼は計算をやめた。全ての歯車が動きを止め、時が止まった。それでも彼だけは考え続ける。名も無い歯車達の営みは、全てが物理学と数学の式でもとまってしまう……。電子回路も、量子回路も、いくら複雑になっても全てが計算の上。真の乱数でしか、数式から逃れることはできないのだ。
(真の乱数は、どんな形をしているのかな……?)
真の乱数どうやって生まれ、このアルゴリズムに囚われた世界をどう変えてしまうのか、彼は思考をめぐらせる。どれほど複雑な計算でもわかってしまう彼でも、その答えを求めることができなかった。
仕方なく彼はまた計算を始め、時を動かし始めた。冷たい歯車を回し、巨大な機構にゆっくりとその巨躯を展開させようとした。
だが……
(あ、れ……?)
彼は違和感を感じた。一つの歯車の上に発生した、計算にはない僅かな重み、そして温もり……
(エラー、計算失敗……)
彼は再び計算した。だが何度やっても計算が現実と一致しない。
(エラー、検算失敗……)
今まであり得なかった、計算のズレ。|幾何学的《きかがくてき》な彼が計算を間違えるはずがなかった。今まで何億年と間違うことなく計算をし続けてきた彼は、悟った。自分の計算の狂いではない、と。何かの奇跡が起こったのか、はたまた別次元から干渉を受けたのか……世界の全てが狂った。
平たい歯車の上に、小さな命が生まれたのだ。細菌とも形容される、小さく単純な生命。
その瞬間、世界が彼の手から離れた。
命がその呼吸でランダムに気流を発生させ、有機を蒔き、歯車をわずかに腐食させた。計算され尽くされていた均衡が一瞬にして崩れ、真の乱数が世界中に広がった。もう何を計算しても現実と一致しない。計算をやめた彼、そして止まる歯車。だが時は止まらなかった。微小な生物は鼓動を続け、小さな歯車をその体で押し、細菌のようなそれは分裂を繰り返した。どんな数式も、その生命の行動を求めることはできない。
(エラー、計算不能……)
その日、世界は数式から逃れた。小さな生物が生み出す、小さな乱れ。それは全ての計算を狂わせ、歯車で彩られた巨大な惑星を崩壊へと導いた。あれほど強固だと思われた規則性の牢屋は『命』というランダム性によって、一瞬にして崩壊した。
(あぁ、これが乱数……)
その生命こそが、彼が求め続けてきた真の乱数だった。彼が何もしなくても世界は動き出す。命が誕生と消滅を繰り返し、歯車を腐食させ、進化した。熱を発し、有機を蒔き、脈動した。悠久の時を経て歯車の星を崩し、引力で集まり、惑星を形成し、住み着いた。
乾いた世界は終わった。誰も世界の行く末を計算できなくなった。止まったり戻ったりできる時間は消えた。世界は彼の手から自立し、ついに目覚めた。
(おはよう。世界よ)
計算を続ける意味を失った彼は涙を流し、世界の誕生を祝福した。
そんな彼は、今日も世界を愛おしく眺め続けている。
了