第一章 三話《サブリエをぶらり》②

───脳が蕩けそうになる。本能的な強い欲求に抗える人間は単に我慢強いか、もしくは壊れているかのどちらかだ。このままでは全てダメになると分かっているのに、とても逆らえない。少女の脆弱な理性で、今更抵抗なんて出来る筈もない。
「や…っ、ドロシーさん!らめぇ───!」
「ふふっ、言いましたよ?助けてくれたお礼だって。ダメだなんて言って、ウソツキ。ゼラちゃんのココ、こんなにヨダレ垂らして……あははっ」
「やぁっ…!これ以上はわたし…戻れなくなっちゃう…っ」
「あはは、かわいい。ほら、こんなの初めてでしょ」
「ホントにやめて下さっ……これ以上は……質素な食生活に戻れなくなるから───!」
見るからに高級そうな肉料理がこれでもかと長机に運ばれていた。料理を口へ運ぶ度、かつてない味と食感に脳が震えそうになる。
───時折、店内中央の牛の絵画が視界をチラつくせいで食欲が失せそうになるが。
「ホント、素手で三人も倒すなんてすごいなぁ。ゼラちゃんってもしかして、すっごい有名な格闘家さんだったり」
「えええ!?ないない、体術は最近その、師匠に教わったばかりで」
「一番凄かったのが、雷属性の塊を消してたような…ゼラちゃん、あれは一体どういった魔法で相殺したんですか?」
「え、えぇぇと…?アレはまぁその、偶然っていうか…偶然です」
美人の褒め言葉と極上の料理でつい口が滑りそうになるが、モネの忠告が頭を過ぎって既の所で口を固く閉ざすゼラ。もしも彼女の反魔法が世間へ知れ渡れば、即座に研究対象として解体されかねないとの事。
女性は好奇心旺盛な瞳をギラギラと燃やしている。下手すれば先程の戦闘で使用した《反・魔法─アンチ─》の事を根掘り葉掘り聞いてくるかもしれないので、ゼラはそれよりも早く別の話題を展開する事にした。
「あ、あの。ドロシーさんって、普段は何されてる方なんですか?」
「私は…そうですね。一言でいえば、研究者…というカテゴリに入るんでしょうか。あぁその、研究者といっても名ばかりで、全然大した事はして無いんですけどね!あはは…」
研究者と言われてまず頭に浮かんだのはモネの軽薄そうな顔。同じ研究者といっても、ドロシーとモネはまるで天使と悪魔。月とスッポン───言うまでもなくモネは悪魔とスッポンである。
マッドサイエンティストと真っ当な研究者でこれ程まで明確に人柄の差が出るものなのだろうかとつい感心。そもそもサブリエに訪れて以来、プライベートでまともな人間と会話するのはこれが初めてかもしれない───そう思った途端、なんだか涙が溢れてきた。
「ゼラちゃぁぁあん!?」
「ずびっ……おおぉん……まともな人だぁ……」
サブリエにおいて関わってきた人間───山賊・山賊・山賊・山賊・山賊・マッドサイエンティスト・ドロシー。
(───あれっ。ほぼヒゲだぞ)
ゼラを攫おうとした賊。名前も知らない五人組はゼラが大ピンチに陥った原因である事は疑い様の無い事実なのだが、皮肉にも彼らと共に過ごした最初の数分間は温かいものだった。空腹の腹に分けてもらった焼き魚と、毛布の温もりは今でも覚えている。
(あの五人組、何してるんだろ。生きてるのかな)
本来ゼラが心配してやる義理はないのだが、どうにもあの時に情が移ってしまった。ゼラのように反魔法が使える訳では無い、魔具に頼らねば火花の一つも生み出せない純粋なEランク。
「あの、ドロシーさん。失礼かもしれないんですけど…」
「はい?なんでも聞いてください」
「ドロシーさんって、魔術適正はどのランクなんですか?あ、答えたくなければ全然」
「…そうですねー」
ドロシーが両手のナイフとフォークを皿の上で八の字に置き、瞼を細めて窓の外に視線を移した所で漸くゼラは己の失言に気付く。
ドロシーが力ある魔法使いならばゼラが駆けつける前に先程の三人組を返り討ちに出来た筈だった。少し考えれば、それくらいはゼラにだって分かる事。
低ランクの魔力適正をコンプレックスに感じる魔法使いは少なくない。訊くべきでは無かったと後悔したゼラが質問を取り消そうとするが、
「一応数値上は、Sランクという事になっています」
「ゼラは茶をスプラッシュした」
Sランク───それはサブリエの頂点に君臨する魔法使いである事を指す。なおB・Eランクはサブリエ人口の1%で、およそ50万人であると言われている。
Aランクは全体の0.0002%───数字にすれば100人強。AAランクは50人未満。そして0.00001%未満───たった4人しかいないSランクの彼らは、他の追随を許さない圧倒的な魔力を誇るという。その内の一人がドロシーで、もう一人はモネ。
「けれど、私の魔法は扱いが難しいんです。国から使用禁止されるくらい…だから、よく実質Eランクだとか言われてます。あはは…」
「そ、そんなのヒガミじゃないですか!気にしちゃダメですよ。スゴいじゃないですか、Sランクだなんて」
「ふふっ、ゼラちゃんは優しいなぁ」
向日葵の様に微笑むドロシー。よくある恋愛本で「星が綺麗だね」「オマエの笑顔の方がキレイだよ」「きゃっバカ!」なんて舌打ちして捨てたくなるドロ甘シーンがあるが、相手がドロシーならばその言葉に納得もしようというもの。
「それじゃあ出ましょうか。お腹はいっぱいになりました?ゼラちゃん」
「あっハイ!あの、ホントにありがとうございます…こんなに美味しいご馳走」
「ふふ、私がお礼言う側なのに言われちゃった。ねぇ、お店を出たら少し付き合ってくれませんか?」
「え…っと。ハイ喜んで!」
一瞬だけ脳裏に「寄り道しないでね」と釘を刺したモネが過ぎったが、過ぎってそのまま星になった。モネの言いつけを守るために目の前のドロシーの誘いを断るなどスッポンの為に月を砕く事に等しい愚行だ。故にゼラは間髪入れずに誘いに応じた。
現在時刻は十四時を過ぎたばかり。
(暗くなる前に帰ればいいよね。モネには物凄い数のチンピラに絡まれたことにしておこう。ていうかコレ───)
どう見てもデートじゃん、とゼラは自身にとって調子の良い結論を付ける。しかし気が付けば二人は旧知の中の様に打ち解け、食べ歩きや互いの服選びをする程の距離感に。サブリエに足を踏み入れて以来、最高に幸せな時間が今この瞬間なのは紛れもない本心だった。
***
太陽が大人しいオレンジになった頃、二人は一生分の遊びを謳歌した気分で帰路に着いていた。
もし今日が続く日常ならば、どれだけ素敵な人生だろうか。人生の意味が幸福の数だと言うなら、飽き果てることの無い娯楽に身を投じる事も悪くはないのかもしれない。
「ドロシーさんって、何の研究してるの?」
「西の町、《アントンポレル》の研究です」
「アントンポレルって…ずっと夜の村?」
「えぇ。皆さんアントンポレルは村と言いますが、元々は今のサブリエくらい栄えていた町だったんですよ。しかしサブリエ城が建って以来、朝日の訪れない魔獣の住処となってしまった」
中央都市・サブリエ城は雲より高い天空の町だ。だが圧倒的な高さ・大きさ故に東の町 《クレプスキュル》の太陽柱の光を遮り、そのせいで西の村・アントンポレルには一切の光が届かない。千年も前に魔獣の住処となってしまった通称 《影の町》。
サブリエを囲むドーナツ状の町 《モーントル》とゼラの故郷 《パンデュール》もアントンポレルに近い区域は魔獣出没区域に指定され、一般市民の出入りを制限されている。
「何故魔獣がモーントルから湧き出すのか。人々はそう考えますが、実際は影のある所から魔獣は生まれるんです。毒ガスが蔓延しているなんて噂もありますが、それも魔獣によるもの」
「けど、一度サブリエに立ち入ったら他の町へは行けないんじゃ…ドロシーさんはどうやってアントンポレルを研究しているんですか?あっ、ひょっとしてSランクだけはサブリエを出入り出来るとか?」
「ふふ、こっそり内緒で抜け出してます」
「嘘でしょ!?」
魔法の秘匿性はサブリエにとって最重要事項。もし他の町への出入りがバレでもしたら、希少なSランクといえど只では済まない。ましてや立ち入り禁止区域であるアントンポレルなどもってのほかだ。
「…さすがSランク」
「あ、魔法は一切使わずに出入りしてます」
「嘘でしょ…」
サブリエの暗殺組織 《ラモール》の監視を自力で掻い潜って脱出するなど、それこそ生身で大魔法に匹敵しかねない天性のコソ泥の才覚と言えよう。───彼女はきっと誰に対しても礼儀正しく品行方正であるが、同時に少女の様に快活で、どこまでも自由な女性であるということ。
「ねぇ、ゼラちゃん」
こちらを振り返るドロシーのシルエットが太陽柱に重なるが、あれだけ大きな太陽柱がむしろ彼女の引き立て役に転じていた。Sランクの輝きを差し引いても、それだけ彼女の美しさは人のレベルとして異常なのだ。
「もし良ければ、また私と遊んでくれますか?」
笑顔に張り付いていたのは期待と、ほんの少しの孤独。どこまでも自由なドロシーは、しかし時折この表情をしていた事をゼラは知っていた。そんな彼女に同情した訳では断じて無いが、今しがたドロシーが放ったセリフは本来ゼラから言おうと心中で温めていた言葉。
お互いにもう気付いている。日記に書き留めなくなるほど幸せな時間を共有した自分達は、もう既に友人であると。だからゼラは迷う事なく、
「───ゼラ」
答えようとした直前、白髪頭の眼帯男・モネが10メートル程後ろからゼラの名を呼びかけた。モネの表情には普段の軽薄さは微塵も無く、そこにある感情は恐らく怒り。
「あ…モネ」
「何してるの」
「え…?あっ、えと…ごめ」
「こっち来て」
言いつけを破ったのだから、ゼラといえど多少の小言は覚悟していた。しかし普段の彼とは到底思えない怒気を真正面から受け、思わず子供のように言葉に詰まる。
───その一瞬後。気が付いた時には、恐らくはモネの正体不明の魔法によってゼラは彼の背後へと移動しており、同時に怒気が自分には向いていない事を確信する。
怒気よりも殺気と呼ぶに等しい刃物の様な凄まじい威圧感は、あろう事かドロシーに向けられていた。
「───ッ!! モネ、違うの!ドロシーさんはわたしのワガママに付き合わせただけで」
「ドロシー?へぇ…オマエそんな名前だったっけ?」
「…え。ねぇモネ、アンタ何言っ───あ、」
突如、全身が正体不明の寒気に襲われる。全身の身の毛がよだつ理由が分からない。至近距離のモネが殺気を放っているからだろうか───否、きっとそうでは無い。まるで毒虫の集合体が蠢いているかの様な冷たく邪悪な気配は丁度ドロシーの位置からだ。
「ドロシー…さん?」
景色に異変が起きたわけでは無く、ドロシーの身に何か変化が起きたわけでも無いというのに───まるで世界そのものが彼女のせいで残酷に変色したかのような、不可解な錯覚に陥る。
太陽はまだ明るい。それなのに夕日がかった空の赤みは、今まで体験したどんな夜よりも不気味な色をしていた。
「彼女はドロシーでは無いよ、ゼラ」
「え…でも」
モネの言葉の続きを遮ったのは偶然ではない。悪い予感が現実になる前兆を、何時になく敏感な魂は無条件で感じ取っていたからだ。モネはゼラを一瞥さえせず目の前の《脅威》に全神経を注いだまま、酷烈な真実を叩きつけた。
「奴は呪術組織 《アヴィス》の真祖。アイシクル=レッドガーデン。僕達の敵さ」