第16話

 重松社長がデジタル・エレメンツ部門に入ってきたのは、軒がチュートリアルを始めようとしていた時だった。HF社の最高指揮官である重松社長が何の予告も無しに入ってきた事は今まで一度もない。私と軒はすぐに席を立ちあがって深々と礼をした。
「神崎。例の──桜野のバックアップ計画が始動したと聞いたが、それは本当か」
「はい。現在、大葉志穂という女性社員が、桜野のバックアップにアクセスし、無事にゼロ日目との交信を開始した所です」
「そうか」
 私は出来る限り落ち着いた口調で重松社長に告げた。重松社長はHF社の心臓部であるここ、デジタル・エレメンツの状態に非常に慎重になっている。
「全てはバックアップの存続に関わっている。大葉志穂がどんな社員か私は詳しくは知らない。だが、聞くところによると今年入ってきたばかりの新入社員らしいじゃないか。──大丈夫なのか、そこは」
 どうやら重松社長は既に色々と情報を仕入れているようだった。残念ながら今回の人選を行ったのは軒だ。私は軒に目線を向けた。
「ご安心ください。今回の人選は私軒が務めさせていただきました。大葉志穂は確かに新人です。HF社に対してもそこまでの知識が無いと踏んでいます。我々が本来最も力を入れているバックアップに関しても何も知識が無かったのです」
「だから、それで大丈夫なのか。知識が無い人間をバックアップに繋いで、それで桜野美香の死を塗り替える事なんて、可能なのか」
「私たちが危惧しているのは、桜野美香のバックアップ体を取り巻く派閥です」
 重松社長が黙った。確かに、桜野美香のバックアップ体を巡っては社内の取締役会でも意見が二分し、派閥が出来ていた。軒が話を続ける。
「もし、桜野のバックアップを巡って反対派の人間に桜野のバックアップ体を任せればどうなったでしょうか。──ここは、無知な新人を入れた方が得策かと」
 軒は若手ながらもデジタル・エレメンツに居るのはこの鋭い頭脳のお陰だと誰かが言っていた。無表情でロボットみたいな所はあるが、正確無比な仕事っぷりは私が見ても驚く所があった。
「分かった。ここは軒の考えに賛成しよう。だが、絶対に失敗は許されないからな。ここで失敗すれば、バックアップは|終わる《・・・》。──頼んだぞ」
 重松社長は私を力強く見つめるとエレベータに乗り空間から消えた。重々しい空気がデジタル・エレメンツ部門に残った。