第1話

 ――私がやりたかった仕事って何だっけ。

 コピー機とパソコンのキーボード音が延々と聞こえるオフィスに私、|大葉志穂《おおばしほ》は居た。たまにシュレッダーの音が聞こえる。シュレッダーを使うタイミングが印刷物を間違えたか、古い書類を廃棄するかのどちらかだ。
 何故だろう。何故私はここで黙々と、|画面《がめん》に表示された升目に数字を打ち込む作業をしているのだろう。いや考えるな。私はこれでも一流大手IT企業に就職出来たんだ。ここで、ゴールドチケットを逃すような事をしてはならない。いつか絶対に、絶対に希望の部門に行けるはずなんだ。
 ここの会社の面接を受けるとき、うまくいったと思ったんだけどなあ。

 私が元々大学で専攻していたのはプログラマーになるために日々開発言語を学ぶ情報関係だ。いつかは大きな企業で巨大なシステムを構築し、皆が日々使うようなものを開発したくてうずうずしていた。
 だから、就職先は絶対今の会社。ここ、ハイエンド・ファミリーズ(通称HF)社へ入社する事を決めていた。そしてその夢は無事叶った――はずだった。

 最初の|違和感《いわかん》はフロアの違いだった。この会社は東京でも有数の大手テナントが入るSビルという所の上層階全てを持っているのだが、私が初出勤で通されたフロアはその中でも低層フロアだった。HF社の面接を受ける時に会社情報を調べていた。私が志望していたプロダクト開発部門は上層階だったはずなのだ。
 何かがおかしい。
 そう思ったのも束の間、デスクに置かれていたのは少し触れたら雪崩が起きそうな書類の山々だった。私は焦りながらも、私の上司だという男性の社員証を確認した。
【基礎事務部門。中野紘一】
 社員証には確かにそう書いてあった。おかしい。おかしいではないか。私、大葉志穂はプロダクト開発部門に行きたいのだ。面接でもそう言った。履歴書だって、情報系だ。文句ない完璧な面接だっと自負していた──はずなのに。
「それで、今日はあの書類の山をデジタルデータに移していく作業をお願いしてもいいかな?」
「は、はぁ……」
 私は入社早々、全身から力が抜けた。中野さんから渡された社員証にもきっちりと
【基礎事務部門。大葉志穂】
 と印刷されていた。私は今日からHF社の基礎事務員なのだ。別に事務の人たちを嫌っている訳ではない。事務の人たちも立派だと思っている。目に見えない電卓速度、書類のチェック。何をとってもプロフェッショナルだ。だが、私が目指していたプロフェッショナルは、ここではない。
 最新のソフトウェア、最新の技術。横文字が飛び交い、それに必死についていきながらもプロジェクトを成功させる――私のサクセスストーリーはどこへ行ったのか。
「じゃあ、私は部長会議があるから、また後で。詳しいことは、そこにいるベテランさんたちにでも聞いてみて」
 そう言うと中野さんは居なくなってしまった。事務員さんたちは私の事など気づいていないかのように黙々の作業をこなしている。
「こ、こんにちは……」
 私は壊れたロボットのようにぎこちなく歩き始めた。そして椅子を引いてデスクに座ろうとした瞬間、山積みになっていた書類が振動で一気に崩れ落ちてしまった。
「何やってんだい! 君! ――あれ、見慣れない顔だね」
 最初に声を出したのは白髪の眼鏡をかけた「いかにもベテラン」という風貌の男性だった。私の方はというと全く心の準備が出来ておらず、変な声が出てしまった。
「あの! 今日からお世話になります、大葉志穂と言います。よ、よろしくお願いいたします」
 私は崩れた書類の山に頭を突っ込みながら深々のお辞儀をした。お辞儀のせいでまた書類がいくつか地面に落ちていった。
「あれ? 新入社員さん? 中野さんと一緒に来なかったのかい?」
 ベテラン風貌の男性は眼鏡をずり上げながら訊き返してきた。いや、あなた方が作業に没頭しているあまり、中野さんが居たことスルーしてたんでしょ、と言いたい所だったがぐっと堪えた。
「先ほどまで一緒に居たんですが……」
「ありゃ、そうなのかい。まあいいや、取り敢えずよろしくね。まあ分からない事あったら聞いてくれよ」
 ベテラン風の男性が話を切り捨てるように言ったのが合図かのように他の事務員さんたちも私から目を逸らし、作業に戻ってしまった。ここは新人潰しのミッションでも会社から背負わされているのか。そう思ってしまうぐらい素っ気ない態度だった。

 ――今日から社会人か……。
 私は胃が急に痛くなってきた気がした。