第1話 ウツロとアクタ

「人間って、何だろう?」

 ウツロがそう|呟《つぶや》いたとき、アクタは「またはじまったか」と|内心《ないしん》そわそわした。
 |弟分《おとうとぶん》の『|悪癖《あくへき》』が|発動《はつどう》したからだ。
 |穏《おだ》やかな春の|昼下《ひるさ》がり、山の|奥深《おくふか》くの、ちっぽけな『|隠《かく》れ|里《ざと》』の中で。

 |杉林《すぎばやし》に|囲《かこ》まれた小さなネギ|畑《ばたけ》。
 二人の少年がそこで、言葉を|発《はっ》するのも|忘《わす》れるくらい、せっせとネギを|引《ひ》っこ|抜《ぬ》いている。
 ひとりは名をウツロ、もうひとりはアクタといった。
 |年齢《ねんれい》はともに十六|歳《さい》だが、彼らは自分の|歳《とし》など|数《かぞ》えたこともないし、そもそも知らない。
 |生年月日《せいねんがっぴ》がわからないのだ。

 |西日《にしび》がしだいに強くなってきて、二人が身に|纏《まと》う|紺色《こんいろ》の|作務衣《さむえ》は、すっかり|汗《あせ》だくになってきている。

「何をもって、人間といえるんだろうか?」

 ウツロの|悪癖《あくへき》――それは彼が『|思索《しさく》』と|自称《じしょう》するものだ。

 この少年は|哲学書《てつがくしょ》を|愛読《あいどく》し、その|思想《しそう》について考えをめぐらせるのを|趣味《しゅみ》としている。
 もっとも彼にいわせれば、それは趣味ではなく|人間になるため《・・・・・・・》、らしいのだが。

「何が人間を、人間たらしめるんだろうか?」

 ウツロとアクタは|孤児《こじ》だった。

 二人が|赤《あか》ん|坊《ぼう》のとき、それぞれ|別《べつ》な場所に|捨《す》てられていたのを、この|隠《かく》れ|里《ざと》の|主《あるじ》が発見し、|拾《ひろ》い|上《あ》げ、ここまで育てた――と、彼らは聞かされている。

 親から捨てられたという|過酷《かこく》な現実を二人は|背負《せお》っている。
 特にウツロは、その現実に|耐《た》えきれず、「自分に責任があるのではないか?」と、みずからを|責《せ》めつづけている。

 |俺《おれ》は親に捨てられた。
 こんなことが人間にできるはずがない。
 そうだ、俺は人間|じゃないんだ《・・・・・・》――
 |醜《みにく》い、おぞましい……そう、『|毒虫《どくむし》』のような存在なんだ――と。

 それゆえ、|古今東西《ここんとうざい》の|哲学者《てつがくしゃ》・|思想家《しそうか》の|知恵《ちえ》を|拠《よ》り|所《どころ》とし、つねに自分という存在について|問《と》いつづけているのだ。
 それは考えているというよりも、すきあらば|襲《おそ》いかかってくる|自己否定《じこひてい》の|衝動《しょうどう》と戦うためなのだった。

「人間が自身を|克服《こくふく》できる存在だと|仮定《かてい》するのなら」

「ウツロ」

「その|行為《こうい》が|人間的《にんげんてき》な|生命活動《せいめいかつどう》といえるのであって」

「ウツロっ」

「それをたゆまず|続《つづ》けることではじめて、|真《しん》の人間といえるんじゃないだろうか――」

「ウツロっ!」

 |果《は》てしない|思索《しさく》の|連鎖《れんさ》に|陥《おちい》っているウツロへ向け、アクタは手にした|一本《いっぽん》のネギを、|頑丈《がんじょう》な|肩《かた》の力と|腕《うで》のスナップをきかせて、|手裏剣《しゅりけん》のように|投《な》げつけた。
 |大気《たいき》を|切《き》り|裂《さ》くほどの速さと|鋭《するど》さで飛んできたそれを、ウツロは|片手《かたて》を少し動かして、たやすく|掴《つか》み|取《と》った。
 たかがネギとはいえ、|直撃《ちょくげき》していれば|頭蓋骨《ずがいこつ》に|ひび《・・》くらいは入っていただろう。
 だがウツロもアクタも、いたって|涼《すず》しい顔をしている。

 杉の|並木《なみき》は変わらず、そよ|風《かぜ》にさざめいている。
 こんな彼らのほほえましい『|日常《にちじょう》』を、春の|陽気《ようき》もにこにこと笑っているようだった。

「アクタ、いまいいところなんだ。|邪魔《じゃま》をしないでおくれよ」

 ほおっ|面《つら》をかすかに|膨《ふく》らませたウツロに、アクタは|生来《せいらい》の|仏頂面《ぶっちょうづら》を向けて|応酬《おうしゅう》する。

「『|催眠術《さいみんじゅつ》』はそのへんにしておけ。こんなところで|寝落《ねお》ちしたら、ネギの|肥《こ》やしになっちまうだろ」

「うまい|表現《ひょうげん》だね」

「ほめてねえだろ?」

「うん」

 アクタはその|容貌《ようぼう》に|反《はん》して|柔《やわ》らかい|意思表示《いしひょうじ》をしてみせたが、ウツロに|軽《かる》くあしらわれた。

 ウツロの|思索癖《しさくへき》はいまにはじまったことではないとはいえ、アクタにとっては|読経《どきょう》をひたすら聞かされているようなものである。
 |悪気《わるぎ》など|毛頭《もうとう》ないことは|重々承知《じゅうじゅうしょうち》だったが、アクタにとってはこれが大きな心配の|種《たね》なのだった。

「お前がこの世でいちばん好きな単語を|発表《はっぴょう》してやろうか? 『人間』だ、そうだろ?」

 低く|野太《のぶと》い、|芯《しん》のとおったアクタの言葉に、ウツロは|驚《おどろ》いた様子だ。
 一八五センチという|長身《ちょうしん》のアクタに対し、十センチほど背の低い彼は、かがんだ|体勢《たいせい》からゆっくりと顔を上げ、|目線《めせん》を合わせた。

「アクタ……」

「なんだ?」

「……そこまで……俺のことを、わかってくれていたなんて……」

「やめろ、|勘違《かんちが》いするだろ」

「……|違《ちが》うの?」

「|違《ちが》わねえけど、|違《ちが》う」

「何それ? |矛盾《むじゅん》してるよ……|誰《だれ》の|思想《しそう》かな?」

「お前は……」

 アクタの|態度《たいど》にウツロは|困惑気味《こんわくぎみ》だ。

 ウツロの|心境《しんきょう》をアクタはじゅうぶんすぎるほど|把握《はあく》している。
 だから|余計《よけい》なことを考えすぎる|危険性《きけんせい》をかねてから|示唆《しさ》してきた。
 だが|当《とう》のウツロは、その|配慮《はいりょ》に気づきつつ、それでも|思索《しさく》をやめられないのだ。
 それほどのトラウマを彼はかかえているのである。

 ウツロは|視線《しせん》を落としてまた何か考えこんでいる。

「……人間とは何だろう、アクタ……俺はずっと、それを考えているんだ……何をもって人間といえるのか……何が人間を人間たらしめるのか……」

「|難《むずか》しすぎるんだよ、お前の『|人間論《にんげんろん》』は」

「……そうかな……もし……俺がこの|問《と》いかけに解答を|見出《みいだ》したとき……俺は、人間になれるような気がするんだ……」


 こんな|不条理《ふじょうり》があるだろうか?
 彼は自分が人間|ですらない《・・・・・》と思いこんでいるのだ。

 アクタも同じ|境遇《きょうぐう》なので|明《あ》かしてこそいないが、「俺の存在は|間違《まちが》っている」「俺は|間違《まちが》って生まれてきたんだ」とさえ考えてしまうのだ。

 |理不尽《りふじん》にもほどがある。
 いったい彼に何の|罪《つみ》があるのか?
 あるいは幸せに生きることだって、できたはずなのに。

 |自己否定《じこひてい》がウツロを|食《く》い|殺《ころ》す。
 |精神《せいしん》に|巣食《すく》う|悪魔《あくま》が彼を|破滅《はめつ》へ|導《みちび》こうとする。
 それがどれほどの|苦痛《くつう》であろうか?

 ウツロの顔が|苦悶《くもん》に|歪《ゆが》んでくる。
 アクタは見ていられなかった。

 どうしてこんなに|苦《くる》しまなければならないのか?
 お前は何も|悪《わる》くなんかないのに……

 彼は「しかたねえな」と、ひとつの決意を|固《かた》めた。

 ウツロは顔を|伏《ふ》せて落ちこんでいる。
 フッ――と|気配《けはい》を感じて――

   むぎゅー

 顔を上げた彼の|頬《ほほ》を、アクタは|真横《まよこ》に|引《ひ》っ|張《ぱ》った。
 ゴムのように|伸《の》びたその|顔面《がんめん》を、アクタの|鉄面皮《てつめんぴ》がのぞいている。

「|にゃんだよ《・・・・・》、アクタ」

 アクタがひょいと手を|放《はな》すと、ウツロのほっぺたは|復元力《ふくげんりょく》にしたがって、ポヨンと|元《もと》に|戻《もど》る。

「俺で遊ばないでよ」

 いぶかるウツロにアクタは|相変《あいか》わらずの|能面顔《のうめんがお》だ。
 彼は|一呼吸《ひとこきゅう》してゆっくりと、|間《ま》を|置《お》きながら語り出す。

「なあウツロ、俺らは生きてるだろ? だから人間なんだ。それでいいじゃねえか。あんま|難《むずか》しいこと考えんな」

 ひとつ|間違《まちが》えれば|逆《ぎゃく》にウツロを|傷《きず》つけてしまうかもしれない。
 しかし|危険《きけん》な|状況《じょうきょう》でもある。
 アクタは考えに考え、|最大級《さいだいきゅう》の|賭《か》けに|及《およ》んだ。

 ウツロは|口《くち》もとを|一文字《いちもんじ》に|結《むす》んで|難《むずか》しい顔をしている。
 アクタはハラハラするあまり|冷《ひ》や|汗《あせ》が出そうになった。

「生きてるだけでいい、か。うーむ……」

「|納得《なっとく》できねえか?」

「……人間は、|難《むずか》しい……」

 ウツロは|例《れい》によって考えこんではいるものの、どこか頭の中が晴れていくのを感じた。
 それをくみ取ったアクタは、やっと|胸《むね》を|撫《な》で|下《お》ろすことができた。

「いらんことを考えすぎるのはお前の|悪《わる》い|癖《くせ》だぞ。俺みたく頭をパーにしろ」

「それ、言っててつらくないか?」

「どうせ俺は、パッパラパー|助《すけ》くんだよ」

「なんだ、それ」

 ウツロの顔が|緩《ゆる》んだのを確認して、アクタはようやく|笑顔《えがお》を見せた。
 この|場《ば》はなんとかやりすごすことができたが、|一事《いちじ》が|万事《ばんじ》である。

 |今後《こんご》も気が|抜《ぬ》けない――だが、俺がやらずに|誰《だれ》がこいつを|支《ささ》えるのか?
 そう自分に言いきかせた。

 |兄貴分《あにきぶん》も|楽《らく》じゃねぇぜ。

 アクタは体の力が|抜《ぬ》けるのを、この|憎《にく》めない|弟分《おとうとぶん》に|悟《さと》られないよう、笑いつづけた――

(『第2話 その男、|似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》』へ続く)